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もちつきにっき

名刺に書いてる以外のこと。

手を伸ばす

手を伸ばせば届くことの悲しさを教えてくれたのは机に積まれた本だった。
お金がなくて隣町まで自転車で行き、古本屋で立ち読みしていた頃を思い出す。図書館から借りた本でも、家に着くまで待ちきれなくて街灯の明かりの下で目を凝らした。

今はある程度お金も入って本くらいなら欲しければいつでも買える。ポチッと買ったものの忙しくて積んだままの本を見たら、あの頃の私はなんて言うだろう。

手を伸ばしても届かないことの喜びを教えてくれたのは久しぶりに会ったあの人だった。
穏やかな表情で大人の返事をする彼を見て、私との間にある距離が見えた。決して私の机の上には積まれないその輝きに支えられた。

きっと手を伸ばすことが好きなのだ。脚立を使ったら届く距離だとしても無意味な背伸びをしていたい。「届かない、届かない」と言って喜んでいる小学生でもしないような茶番なんかとっくに皆卒業して、脚立をよじ登った先にあった幸せと仲良く暮らしてる。

それでも私は止められない。「手を伸ばしても届かないこと」にずっと夢を見ていたいのだ。

好きと言うこと

今住んでいる町が好きだなぁと思う。

おはぎがおいしい和菓子屋さんも

天井からぶら下がる計りに野菜を置く八百屋さんも

細々とずっと続けている模型屋さんも

夕暮れどきに表を掃くスナックのママも

薄れてもうほとんど読めない「ラヂオ店」の看板も

自転車で通り過ぎるだけで満たされる。

 

一度だけ訪れた喫茶店がいつの間にか閉めていた。

「あ」と思った。

あんなに好きだと思ったのに、結局伝えないままだった。

もうきっとマスターと話せることはないだろう。

 

好きだったら伝えなきゃいけなかったなと思う。

数百円あったら何か買える。

サイトの口コミ欄に書き込むだけでも応援できる。

どんなにこの町が好きでも

通り過ぎてばかりいたら、何も伝えられないのだ。

 

それは人でも物でも同じ。

「いつかはなくなってしまう」

それを時々思い出すだけで、やるべきことはたくさん見つかる。

好きなものを好きだと言うことは、

他人を生かすことでもあるし

自分を生かすことでもある。

 

 

 

 

 

 

なんか最近教訓めいた恥ずかしい文章しか書いてないな…
まぁでもすべて本心100%です。しかたない。

覚えておく

数年前まで美術と名のつくものが好きではなかった。どうせ私にはわからないとへそを曲げていた気持ちがあった。
「あなたはどう思いましたか、自由に書きなさい」なんて言いながら答えはある程度決まってた現代文の授業みたいな息苦しさ。でも美術の感想において「答え」を導きだすのは先生の顔色を窺うよりずっと難しくて、いつになってもコツさえわからなかった。

それを変えてくれたのはひょんなことから知り合ったアーティストの友達だった。

その人は私を現代美術館にいくつも連れてってくれたけど、何をどう感じたらいいのか「やっぱわかんねえなぁ」と思うだけだった。

帰り道その人は「覚えておくといいよ」と言った。
「今わからなくても覚えておくといいよ、俺だってわからないものばっかりだ」

それから私は相変わらず「わかんねえ」ままだが、現代美術が好きになった。

覚えておくことの重要性は美術に限ったことではないと思う。
悔しかった。
好きだった。
変えたいって思った。
なんでだろうって思った。
生きるのに必要なことをこなすうちにそういうことはびっくりするくらい忘れる。

だから私は意志をもって覚えておこうと思う。
答えの出ない今日を、まだ見ぬ明日のために。

価値

国を代表するような大企業のロゴマークがびっしりと並ぶスクリーンを背に男は微笑んだ。観客は声こそあげないが見上げるようなまなざしを男に託した。幼いころからの英才教育が功を奏したのか私たちは静かにしているのが不必要なほど上手だ。アルバイト先のスーパーのレジでは、袋をいるか聞いても唇から2mm先の空気を震わせるだけでイエスかノーかを答える客ばかり。疲れてイライラしているときは聞こえねえんだよと胸ぐらを掴みたくなるので無言で袋をつけるときも多い。環境のことを思えば胸が痛いが、大切なのは地球より自分の精神衛生だ。

いつのまにか男は私の目の前に立っていて、こう言った。

「では質問。冴えない地味ーな男が学園のマドンナ、超絶美人と付き合ってたら、その男には何かあるんじゃないか?って思うよね?どう?」

「いいえ。容姿のつり合いで相性を判別なんて安直すぎるし、そもそも人の恋愛事情なんて知ったこっちゃありません」と答えようと口を開いたら「そうですね」と発音していた。私の口よ、お前は正しくて無難なやつだ。

男は満足そうにうなずき話を続けた。これは質問ではなく発声練習だ。それも発声した者の思考を少しずつジャックする部類の。軽やかでさりげない洗脳を振り払うように、「大手企業ではない本社がここまでの大手と取引できる理由」を説明する男のスーツの裾から出ている糸に意識を集中させた。周囲は一心に男の話に聞き入り、時折涙を流す者までいて少し薄気味悪いものを感じた。

なるほど、ブランディングと栄光浴は紙一重だなと一人納得して窓の外に視線を移すと雲ひとつもない青空が見えた。その青がふいに先日読んだ漫画の表紙の青とリンクする。

図書館で目当てもなく本棚を見ていて見覚えのある題名に目が止まった。そういえば少し前に映画化されてたなと思い出し何の気なしに借りたそれは30年ほど前の絵柄が馴染みづらく、ストーリーもつかみどころがなく、10ページほどで飽きてしまった。表紙も青一色でわからんどういう物語やねんこれとネットであらすじを検索すると「少女漫画史に残る不朽の名作」という見出しの下には弱冠二十歳にしてこの作品を描いた作者の天才ぶりだとか、思春期の男女の繊細な心理描写だとか、シリーズ累計800万部だとかが延々と書かれていた。興味が一気に湧いてもう一度読み始めると、先ほどと打って変わって大変に面白い。わかってるなぁ、思春期の男女の繊細な感情さすが不朽の名作ウンウンとうなずき読み終わった。2回は読まなかった。

あぁ。私も変わらないんだなと空を見つめて思う。私は大きな企業の名前を連呼する男もそれに尊敬のまなざしを向ける周囲の人も馬鹿にしていた。自分のなかにものさしがないから簡単に誰かが決めたわかりやすい価値に振り回される。けれどそれは私だって同じだ。

名作と呼ばれるもの以外は読みたくないし、流行っている洋服が欲しくなるし、高評価がついていないお店には目もくれない。正直、男が大企業の名前を連ねたときも会社の認識が変わった。


地上に出回っている価値を測る項目、それを超える付加価値を、自分の中で見つけられたら。

インスタ映えもしない、同窓会でも自慢できない、人には勧められない、それでもいいんだよなぁって言えるものに自分の財産を使っていたいと思う。

気づかせてくれた男には、今は少し感謝している。

渇き

私は渇かすことを目的としているので、本当はランニングでも悪夢でもいい。人間は渇いて生まれてきたと信じていて、そういう意味では本来の姿に戻るための作業でしかなく待っているのはこの先。
65度の角度が少し苦しくて、まぶたをきつく結ぶ私がまとうものは溢れるものを受け止めるにはやわらかくて薄すぎる。いつもは不快なそれを全ての力を抜いて迎えた先のその一瞬。
そんなものを糧に生きる人間には届かない日々は今日もプラスチックの向こうに輝いて「いいね!」と毒づく私を潤すのはやっぱり、あの透明。

言葉

ホメロスの「オデュッセイア」には青という言葉が一度も登場せず、古代人は青が認識できなかったのではないかという議論が一時期盛んになった。
学術的な用語は割愛するが、いわゆる言語と思考の話である。今も世界には色を表現する言葉が二種類(明るい/暗い)しかない部族がいるという。ある実験ではその人たちは相当する言葉を持たなくても色を認知できたという結果も出ているし、また別の実験では原色ではない微妙な色の認知にはやはり言語が及ぼす影響が認められた。事実の真偽は学者に任せることにして、なかなか想像力をかきたてられる話である。
彼らは色に対して二つの言葉しか持っていなくても、生活に支障はないのだろう。でももしある日、自分の言葉では形容しがたい色の花を見つけたら。やわらかい白が先になるにつれて少しずつ桃色になっていく色の花の美しさに見とれた少年がいたら。帰ってお母さんに伝えたくてもその言語では「明るい色」としか言えない。落ち込むだろう。しかしそれでも生活に支障はない。少年は次第にそのことを忘れていく。

素人の妄想でしかない話だが、本を読む前の私はまさにその少年だった。


ある小説の一行目が、私の気持ちを一字一句的確に表したことがある。ぎくりとしながらも次の行を追うのをやめられなかった。その文章は私の「明るい色」に「やわらかい白が先になるにつれて少しずつ桃色になっていく色」という言葉を与えた。言語としては同じ日本語でも、違う言語を読んでいるような気分だった。それから私は本を読み漁り、「明るい色」だけで十分生活できた頃にはもう帰れなくなった。
本は私にとって、感じた気持ちに言葉を与えてくれるものでもあったし、まだ知らない気持ちを表す言葉を教えてくれるものでもあった。


しかし最近、少しその認識に疑いを持つようになった。


冒頭で紹介した議論のなかでは、言葉を与えるからそれに合わせようと思考が歪むのだと言う人もいる。言語化することの危うさはそこにあると思った。「この文章はまさに私の気持ちを表している!」と確信しても、もしかしたら思考を歪めているのかもしれない。言葉のフィット感に興奮して、取りこぼした気持ちに気づいていないのかもしれない。

どんなに言葉を尽くしてもいつまでも気持ちには追いつけないと知り、気が遠くなった。言葉は万能ではなかったのだ。

しかし、その事実は同時に希望でもあると今は思う。人は言語化にゴールはないからこそ言語化する。どんなに優れた人が言葉を尽くしても、ゴールではない。その先がある。

追いつかないとしても近づけたと感じるその一瞬。それを求めて私は今日も言葉にするのだ。

ことにしました

私は私の意見を言う。

でもその背後にあるのは100%の気持ちとは限らないのだ。

100%だとしても、いつまでも100%とは限らないのだ。

「42%好き、20%どうでもいい、5%期待、その他わからない」だとしても、円グラフの内訳を正確に話すのは様々な観点から見て難しい。だから日々円の中からその場に合ったものを一つ選択する。例えば「私も大好き!」と。

存在しない気持ちはなるべく言わないようにしてるから嘘をついているわけではない。

言語の制約によって25%しか感じていない気持ちを言うときもあるし

空気の制約(これがもっとやっかい)によって2%の気持ちを言うときもある。

嘘よりそっちのほうがたちが悪いのかもしれない。

%は言葉に出すと予想外に変わることもあるからもっと複雑だ。

言葉にすると自分で見えちゃうし、誰かに伝わっちゃうから。

 

どうしても言葉にしたくない気持ちを時折感じるけど、

私は多分この効果を嫌がっている。

感じた気持ちを外気にさらさずにそのままにしておきたいときもあるのだ。

増幅も減少もしなくていい。誰かにわかってもらわなくてもいい。見たくない。

 

だからどうしても必要に迫られるまで

今はまだこの気持ちを胸の中だけで感じる、ことにしました。