もちつきにっき

名刺に書いてる以外のこと。

「あー」って声出して思考を遮ろうとする

久しぶりに帰省してあんたいい加減部屋のもの処分してちょうだいよと顔見るなり怒る母にへいへいと生返事でだらだら机整理してたら慎重に奥にしまってた鍵つきの日記帳見つけてしまいわーやめてくれもう無理読めないなどと言いながら顔を覆った指の隙間から次から次へと読んでしまうマジであの頃の自分大丈夫?世界が自分でいっぱいで窒息しそうなくせに人工呼吸しようとする周囲の手をよけて自ら首を絞めて喜んでるからどうしようもないね…と思いながら自分の見てるものが全世界だと信じて疑わなかったあの頃をすこーしだけ羨ましくもあり、みたいな。

つまりフジファブリック「TEENAGER」聴いた上に、恋は雨上がりのようにを読んでしまった私の心境です。若かったなあの頃って言うほどまぁ今もあまり変わってないんだろうけど。

目的がなくてもいい場所

歩いて棒に当たってる犬を、家の中から笑ってる人が得をする世界なんてさびしくないかね。人に会うたび、どこかに行くたび、先回りしてその場その場の正解を探していくことをこの先もずっと続けていくのかな。特別でも異常でもない私だけど、後先とか知らねーよ別に好かれなくても結構って無敵になれる理由を若さ以外から見つけたい。

奥行き

カレーの作り方を調べていたら「ケチャップを入れると味に奥行きがでます☆」とあった。
奥行きのある、味。
私の味覚機能は大雑把な作りをしている。辛い甘い苦い酸っぱいしょっぱい、うまい。あくまでも私調べだが、この世の97%の食べ物はうまい。どんなものを作ってもうまいので、4年間の自炊生活を経ても私の料理技術はまったく進歩しない。故に友人が遊びにくる夜は冒頭のように「カレー 作り方」で検索をかけるはめになる。そして味の「奥行き」の文字から思考が進まなくなる。私がこれまでの人生で平面味のものしか食べてこなかったのだろうか。今夜来る友人たちはカレーに奥行きがあったらうれしいだろうか。

ある日友人が人っぽくない色の粉を何層もまぶたに塗っているのを見て「なにをしているの?」と聞いたことがある。彼女は「こうすると顔に奥行きがでるの」と言った。
奥行きのある、顔。
私には違いがよくわからなかった。円に影をつければボールに見えたり、線を引けば円柱に見えたりするのと根本的には同じ論理だろうが、彼女の顔はもとから立体だし、その輪郭から後ろに平行線が引かれて円柱になるわけでもない。それはトーマスだ。
聞くと鼻に塗る粉もあるらしい。眉毛を下に書き足すらしい。何が、何がそこまで彼女を奥行きへと駆り立てるのだ。

先日、京都の町を歩いていて、その間口の狭さと奥行きの深さに驚いた。京町屋と呼ばれるその建物は豊臣秀吉の税制に反発するために設計されたものであるらしい(wikipediaより)。奥が見えないほど長く連なる石畳の通路は、不届きものが歩けば一歩踏み出すごとにさらさらと灰になり傍に植えてある椿の肥料となるのではないかと思われるほど上品な緊迫感があった。覗くだけで精一杯だった。

もしかして、奥行きとはあのことだろうか。
技と作法を心得たものだけが踏み込むことを許された地。平面界を揺るがせたZの領域。

私が到達するのはいつだろう。最短ルートは今夜カレーにケチャップを入れること。
私もその門をくぐれるのか。その先には何があるのか。
教えて、トーマス。

1か月我慢できないもの

1か月我慢できないものを定期的に考える。

食事とかトイレとか睡眠とか、生活に最低限必要なものを除く。

ほぼ無限に考えついて、普段どれほど様々なものに依存しているかに気づく。

 

チョコレート、SNS、音楽、右手、走る、白米、インターネット、友達、紙、濁音、嘘、書く…

きりがないのでここらへんにしておく。考察をはじめる。

 

①チョコレート(判定×)

・ココアやチョコレートドリンクなども含む。これは個人差がでるものだ。人によっては1か月はおろか1年食べなくても平気だろう。しかし私は1週間でも耐えられる自信がない。チョコレートの味は他で代われない。砂糖を煮詰めても、焼いても、こねくり回してもチョコの味にはならない。カカオをなめれば風味くらいは感じられるかも知れないが、道端にカカオはそうそうない。チョコレートは安定剤にも似ている。悲しい時もさびしいときもイライラしているときも食べれば少しおさまる。次々と湧き出して流れる自分の言葉でいっぱいになった私の体のなかに溶けていって、句読点をつけてくれる。

 

SNS(判定△※実験の余地あり)

・これは確実に毎日使っているもののひとつだ。もし1か月使わなかったら、相当時間ができるだろう。無意味にいじっている時間が長すぎることは自分でもわかっている。なぜそこまで必要としてしまうのか。表現欲、承認欲求、孤独感、自己肯定欲、好奇心、刺激…理由は様々考えられる。こうやって見ると全体的に渇きを潤そうとしている印象。しかしほんの数年前まではなかったものだ。そのときの私はどうしていたのだろう。…あ、思い出せない。メールしていたのかな、携帯も持っていない頃は手紙を書いていたな。あの頃の私は渇きをそうやって潤していたのか?いや、そもそも渇いていたのか?渇いてもないのに潤したのが始まりだったのか?…思わず懐古が始まってしまったが、これは実験的に1か月我慢してみても面白いかもしれない。中学生の私ができたことを私は今もできるのか。

 

③音楽(判定×)

・考え事をしているときと人といるときを除いて私は基本的に常に音楽を聴いている。散歩や家事をするときにiPodの電池がないとシュルシュルとやる気がなくなる。語れるお気に入りのシンガーもいなければ、ライブなどもほとんど行ったことのない私だが、物心ついたときから生活には音楽があった。SNSより生活への密着年数は長い。街中で聞こえてしまう音楽を除いて、歌うことも、聴くこともない生活。想像さえできない。でも音楽のない環境で聞こえる音とそのときの自分には少し興味がある。その音をすがりつくように聞くのだろうか、何か新しいものを見つけるのだろうか、ああでもその時に脳内で流れるのは今まで集めてきたメロディーだろうな。私はもう音楽のある生活を知ってしまった。

 

予想を上回る量の文になってしまった。続きは気が向いたときに。

 

手と線

店員にどなるおじさん、蒸発した母、週刊誌の記者、不倫してるサラリーマン、もうあとがない政治家、コールセンターのギャル。

その昔、何にも属していない小さな手はすべて、誰かと繋がるために結ばれていた。
ある日公園に行ったら地面にたくさんの線が引かれていて、囲まれた枠に自分の名前が書いてあった。
驚いて駆け寄り、地面に手をついた。
手はもう開かれていて、なんでもできることに気づいた。
書く、撫でる、持つ、叩く、絞る、注ぐ、切る。
地面にもっとたくさんの線を引くことだってできた。
時折誰かと手を繋ぐこともあったけど、繋ぎあったって結局ひとりとひとりだと気づいたら悲しくなった。
だんだん、足元を見なくてもどこにどんな線が引かれているかわかるようになった。
同じ枠の中にいた子とたくさん遊んだ。
線をふまないようにすれば怒られなかった。

ふと気がつくと頬に夕日が差していた。
向こうの隅に、平行に並ぶ影を見つけた。
間にあるいくつもの線に目を移した。

「あれ、おんなじだ」

砂まみれの手をはらい、そぅっと差し伸べながら近づいた。


ひとりとひとりである意味がわかった。

卵は一個

小さいころから母には「卵は一日一個だけだからね!」と言われてきた。

二個以上食べるとコレステロール値が高まり、体に良くないという通説があったからである。

「すきやきには卵だけど、今朝目玉焼き食べちゃったね。でもすきやきには卵だもんねぇ…」と悩む母の後ろ姿を見て、卵とお金の消費は計画的にしなければと胸に刻んだものである。

だが近年それは誤情報であることが広まり、卵は一日に何個でも食べていいことになった。

 

これは私にとってちょっとした衝撃だった。

 

1人暮らしを始めてからも「卵は一日一個、卵は一日一個だけ」と唱え、それを順守してきた。たまに間違って二個食べてしまったときは、母が知る由もないのに少しどきどきした。

 

そんな私が。

 

教えてくれたのは友人だった。ある日、食いしん坊の私たちはいつものように食べ物について語り合っていた。味噌って素晴らしい、あれは唯一無二の味だね、私は味噌汁を一か月我慢することなんてできない、私も無理だ、味噌汁の横に卵かけごはんがいることの幸せ、ああそれだけで生きていける、などと文字におこすと一層しょうもなさが浮き彫りになる会話を繰り広げていたところ、私が「でもどんなにおいしくても卵は一日一個だしね」と言うと友人が「え?それ最近変わったらしいよ」と言ったのである。

 

私たちの体は変わらない。卵も変わらない。

しかしその間にある関係は「最近変わった」らしい。

 

今日から卵は一個じゃない。朝目玉焼きを食べたって、昼卵焼きを食べたって、夜のすきやきにはまばゆいばかりの卵をもう一個。それは罪じゃない。振り向けば笑う母、「卵は何個でも食べていいのよ」。

 


故郷のデパートがいつの間にかなくなってしまったような妙な切なさ。私の中でやっぱり卵は一日一個なのだ。母にはいつまでも「卵は一日一個だけだからね!」と言っていてほしいのだ。

ひび

最近一人でも「いただきます」をちゃんと言うようになったなと気づいたり。

でも「ごちそうさま」はまだ忘れちゃうなって思ったり。

天井の模様見ながら、そろそろ出なきゃなぁってうだうだしたり。

お、あれ魚に見えるぞなんて思ったり。

共感ばっかりの共有にちょっと苦しくなったり、でも結局それに救われてたり。

玄関出た瞬間の風に少し立ち止まって、マフラー外したり。

誰に何を言われなくても綺麗って思ったかなと思いながら、桜を見たり。

なつかしい曲につられて思い出す日々が大切すぎて、聴けなくなったり。

コミュニケーションってなんだろう、とふと考えたり。

そんなこと考えてたら青信号の前で立ち尽くしてたり。

近所の喫茶店の「怪我のため、休みます」の張り紙に、心配したり。

久しぶりに会った友達が知らぬ間に大きな選択をしていて、少し遠く感じたり。

でも話せば相変わらずで、なつかしさに安心したり。

シャッターを閉めた店の看板のフォントにときめいたり。

柴犬をかわいいって撫でながら、私はこの子とコミュニケーションできてるのかなって思ったり。

世の中の溢れるほどたくさんのおもしろい本に、気が遠くなったり。

コンビニの店員さんに「こんにちは」って挨拶してびびられたり。

確かにこういう関わり合いのマニュアルにない言葉だなって思ったり。

人は必ず1日に1回は嘘つくって言うけど、今日はどんな嘘をついたっけって考えたり。

ひさしぶりに上手くできた晩御飯に長めに手を合わせたり。

夢中で数分で食べ終わったり。

寝っころがってのびをしたあと、思い出したように「ごちそうさま」を言ってみたり。

 

 

本当は、こうしてること全部忘れちゃう瞬間を待ってる

 

けど

 

それは、こういう日々の先にあるから

 

今日のところは、おやすみ。