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もちつきにっき

名刺に書いてる以外のこと。

言葉

ホメロスの「オデュッセイア」には青という言葉が一度も登場せず、古代人は青が認識できなかったのではないかという議論が一時期盛んになった。
学術的な用語は割愛するが、いわゆる言語と思考の話である。今も世界には色を表現する言葉が二種類(明るい/暗い)しかない部族がいるという。ある実験ではその人たちは相当する言葉を持たなくても色を認知できたという結果も出ているし、また別の実験では原色ではない微妙な色の認知にはやはり言語が及ぼす影響が認められた。事実の真偽は学者に任せることにして、なかなか想像力をかきたてられる話である。
彼らは色に対して二つの言葉しか持っていなくても、生活に支障はないのだろう。でももしある日、自分の言葉では形容しがたい色の花を見つけたら。やわらかい白が先になるにつれて少しずつ桃色になっていく色の花の美しさに見とれた少年がいたら。帰ってお母さんに伝えたくてもその言語では「明るい色」としか言えない。落ち込むだろう。しかしそれでも生活に支障はない。少年は次第にそのことを忘れていく。

素人の妄想でしかない話だが、本を読む前の私はまさにその少年だった。


ある小説の一行目が、私の気持ちを一字一句的確に表したことがある。ぎくりとしながらも次の行を追うのをやめられなかった。その文章は私の「明るい色」に「やわらかい白が先になるにつれて少しずつ桃色になっていく色」という言葉を与えた。言語としては同じ日本語でも、違う言語を読んでいるような気分だった。それから私は本を読み漁り、「明るい色」だけで十分生活できた頃にはもう帰れなくなった。
本は私にとって、感じた気持ちに言葉を与えてくれるものでもあったし、まだ知らない気持ちを表す言葉を教えてくれるものでもあった。


しかし最近、少しその認識に疑いを持つようになった。


冒頭で紹介した議論のなかでは、言葉を与えるからそれに合わせようと思考が歪むのだと言う人もいる。言語化することの危うさはそこにあると思った。「この文章はまさに私の気持ちを表している!」と確信しても、もしかしたら思考を歪めているのかもしれない。言葉のフィット感に興奮して、取りこぼした気持ちに気づいていないのかもしれない。

どんなに言葉を尽くしてもいつまでも気持ちには追いつけないと知り、気が遠くなった。言葉は万能ではなかったのだ。

しかし、その事実は同時に希望でもあると今は思う。人は言語化にゴールはないからこそ言語化する。どんなに優れた人が言葉を尽くしても、ゴールではない。その先がある。

追いつかないとしても近づけたと感じるその一瞬。それを求めて私は今日も言葉にするのだ。