もちつきにっき

名刺に書いてる以外のこと。

フライパン、自然、麦茶

麦茶を一口飲んで、帰ってきたと実感がわいた。
「もーやってらんないよ~7月でこんなに暑いなら11月はもっと暑くなりますな~」
母、葉子がくだらない冗談を空に投げながらキッチンに立つ。私も腕まくりをしてリビングのイスを立った。
「いいのいいのさっちゃんは座ってて」
「え、いいの?なんかやるよ」
「久しぶりに帰ってきたんだからゆっくりしててよーお母さんお昼は腕振るうから!」
「え、冷やし中華って言ってなかったっけ?」
冷やし中華だよ」

ヨーコは適当だなーとつぶやいて座る。母一人子一人のうちではいつからかお母さんとはあまり呼ばなくなった。友達みたいでいいねと以前言われたこともあるけど、葉子のマイペースにときどきいらっとして喧嘩になることもある。でも今日は葉子も少し気遣ってくれるようだった。実際私はもう何をする気力もなかった。
大学に休学届を出してきたのは昨日。
なぜかいつも横柄な態度の学務のなかでも最もいけすかない男が対応者だった。
「無理ですよ。後期から休むとなると前期から続いてる実習の単位が出ませんよ。」
「それでいいです」
男は薄笑いを浮かべてごみを見るような目になった。いや、実際ごみを見るときの人間は無表情だ。あれは相手が意思のある人間だからこそ作った表情だ。

文字通り逃げるように実家に帰ってきたのが昨夜。すべてのことから逃げてきた。連絡もなしにドアの前に立つ私を見て葉子は驚いた。休学のことを話したらもっと驚いた。しかし「あんたもまた大胆な子ねぇ。さすが私の子だわ」とだけ言って理由もあまり聞かなかった。

ジューといい匂いがしてキッチンのほうを見る。感覚器官が好物の匂いに騒ぐ。
「え、なんで卵焼き?冷やし中華でしょ?」
「さっちゃん好きだからさ~卵なんてどんな形でも変わらんよ」
卵焼き器の上には目に鮮やかな黄色が四角く広がる。私は葉子の甘い卵焼きが好きだった。過去形なのは以前の趣味だからだ。今は味覚も大人になって甘すぎるのは体に悪いような気がして敬遠している。
葉子のなかで、私の食べ物に関する情報は家を出ていった三年前からアップデートされていない。ろくに連絡もせず、帰省もしなかった三年間の自分を自覚した。悪かったな、たった一人の娘なのに。
ぼーっと手際のいい母の手元を見つめる。
「卵焼き器って汎用性低いよね」
「ハン…なに?」
「卵焼き器って卵焼き作るときしか使えなくて不便じゃん。フライパンのほうが優秀だわ」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
「でも私は卵焼き器の『卵焼き一筋!これしかできません!』っていう不器用さ好きだよ、さっちゃんみたいで」
「え、なんじゃそりゃ、うれしくないから」
思わず早口で返すが、葉子は鼻唄を歌い気にも留めてないようだ。私は似ていると言われる卵焼き器を見つめた。

「あらよっとっとっ」
葉子が色とりどりの皿をテーブルの上に置く。麺の上に乗るキュウリ、ハム、トマト……卵焼き。
「やっぱりおかしいよこれ存在感が」
「いいから食べな!のびのびになっちゃうよ!」
麺の上に君臨して邪魔なので一番に卵焼きを食べた。

おいしい。
甘すぎる、もはやこれはお菓子だ。でもおいしい。ずっと、18まで食べてきた味だ。この三年間で私はずいぶん大人になったと思ったのに、葉子のなかではこれを頬張っている私で思い出が止まっている。そのことに、ひどく安心する。
「ほら~さっちゃん好きでしょ。私のもあげようか、四個になるよ!」
にこにこと母が笑う。
「ありがとう……お母さん」
自然と、口から出た。



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三題噺の練習で書いてみました。
三題噺メーカーなんてあるくらいだから、メジャーなのかな。楽しかったです。