もちつきにっき

名刺に書いてる以外のこと。

前髪

今前髪が数センチずれたら私のかわいさは壊れてしまうし、同時にそれは目の前の男の夢を壊すことにもなるんだろう。それでは金が入らない。それはいけない。だから私の注意は「来春から昇進するからアメリカへの出張も今より増えるだろうなぁ。まぁ結構行ってるからいい店とか案内できるくらいには詳しいけどね俺」より額の上で8:2に揺れる前髪に注がれている。この人は私がさっきから「すご~い」「え!それってなんですか?」「私だったらできないなぁ…」「かっこいい~」「わー!うんうん」の5語しかしゃべっていないことに気づいているんだろうか。こんなインコ以下の語彙で満足できるならインコを飼ってみてはいかがだろうか。多分今夜払う金で10匹は買える。最低でも5×10=50語。さぞかし潤いのある生活になるだろう。男の部屋にいる10匹のインコが口々にあいづちを打つ様子をしばし想像していたら無言になっていたようで「ねぇ~話聞いてるぅ?」と男が甘えた声を出しながら膝をつついてきた。「あ…ぼーっとしてましたっ。ごめんね…?」と顔を少し近づけて上目づかいで見つめると男はにんまりと笑って「もーかわいいから許す」と私の髪をなでる。今のセリフ、メールだったらいつものように語尾にハートが並んでるんだろうな、ピンクで振動してるやつ。男が髪をなでるのをやめないので少し不快になって無理やり手をどける。髪をなでられるのは気持ちがいい、だからお前じゃない。私はわざとらしく驚いた声をあげ男のスマートフォンに付いている自由の女神のストラップを指差す。「あれっこれってもしかしてアメリカのー?」。そうそうこの前行ったときに買ったの、と笑顔になってスマホを手に取る。写真もあるよ、と電源を入れると幼いふたつの笑顔が映った。男は慣れた手つきでその上に指で三角を描きいじりはじめる。出てきた画面は女がどこかの城の前で立っている写真だった。ロック画面は子供、待ち受け画面は妻。それらをなぞる手には指輪。私は大きな絶望とささやかな安心感を受け止めきれずによろめき男にもたれる。何かを勘違いしたのか男は「今日のホテルさ、近くなんだよね」と小声でささやいてくる。私は聞こえないふりをして、「喉渇いたなぁ~」と天井にむかってつぶやく。「まだボトル入ってるじゃん」と言う男に「焼酎は好きじゃないもん~」とすねた顔で言い、腕に手を置く。しょうがないなぁと男が苦笑した瞬間顔の緊張を半分抜き、カウンターに立っているボーイに声をかける。渡されたメニューを見てやっぱはやく空くのはワインかなと目星をつけたボトルを指差すと、男は値段も見ずにいいよそれにしなと言った。ボトル入っただけでも上乗せもらえるのにこの調子だとチップももらえるかもしれない、自然に笑顔がこぼれる。愛か金かと言われたら断然愛。愛があれば金なんてどうでもいい。だけど愛がなきゃ金はすべてだ。数年前に見た就活サイトが一瞬頭に浮かぶ。希望していたの業界の会社にすべて落ちた私は亡霊のような気持ちで何千と並ぶ会社名を見ていた。給料、給料が高いところはどこだ。愛がなきゃ金だ。

結局全部嫌になってここにいるんだけどね~という心のつぶやきは声に出ていたようで男は「ん?」とこっちを見た。なんでもないですよぉとボーイが運んできたグラスを受け取って乾杯をする。さすが、一本30万。本来の値段はもっと低いのだろうけど、それでも上等品に変わりはないだろう。男も酔いが回り始めたようで赤い顔をしていた。前髪が数センチずれただけで壊れてしまうかわいさにそんな大金をつぎこむ目の前の男を心の底から軽蔑して、そして愛しく思った。このまま適度につぶれてくれたらあとは部下の人に任せられるんだけどなぁと考えながら目を合わせる。「ほんと、かわいい」と男が脈絡なく言う。「え~ありがとうございます~」と笑いながらこれは本当にうれしい。この男の優れている点は「好きだから」とか「君の真面目で頑張っている姿が」とかどうでもいいことは言わずに、「かわいいからやりたい」をはじめから隠さないところだ。素晴らしい。わかりやすくて無駄がなくて役に立つ。何よりも、癒される。じゃあまたあとでね、と四つ折にした札を私の手に握らせ男は顔を近づけて言った。やった、臨時収入。そのまま手を握ってくるのでしょうがないから出口までそのまま行く、手を触られるは嫌なんだけどなぁ。部下たちが「部長、あついっすねぇ」とにやにやしながら声をかけてくる。そういやこの人部長なのか、昼は真面目に仕事してるのか、偉いのか。偉いってなんなんだろうなぁ。じゃあまたねと小声で言ってくる男を20度ほどの角度の笑顔で見送る。客が角を曲がるまでずっと手を振り続けなきゃいけないけどこの暗さで顔は見えないので実際は無表情で手だけぶんぶん振っている。さっき渡された札をそっと見ると中に白い紙片が入っていた。「⚪⚪ホテル609」。欠伸を噛み殺しながら右手のなかでくしゃくしゃに丸めて、動きを止めた。

癒されたいな、もう少し。おつかれーと同期に声をかけ私服に着替えて夜の街を早足で進む。右手で紙を握り左手で前髪を押さえながら。